baiyueren 发表于 2009-3-11 10:23

日本弥生人的源流与稻作传播

九州の弥生人のタイプ

 九州北部の弥生人でも背振山地から西の西北九州沿岸部と東の平野部の弥生人が、全く異質な集団であることを始めて明らかにしたのは内藤芳篤である。その後内藤は九州弥生人を
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_05/kyuusyuunoyayoijinnkotu.jpg  さらに3群に分け、左図のように提示した。

 まず北部九州・山口タイプの弥生人骨は、

平野部で農耕を主生業とし、死後は大形甕棺

を主体とする大規模な墓域に豊富な副葬品を

伴って葬られた人々の遺骨である。

この地域では縄文人たちが渡来系農耕民の新

しい技術や血をうけいれて、文化的にも体質

的(長身・高顔・・注-ヒトの頭蓋骨の計測)

に も均質な集団が誕生した。

 一方、西北九州タイプの弥生人骨は岩礁性

の海岸部で漁撈に従事していた人々が、極め

て貧弱な副葬品と共に小規模な土壙墓や石棺

墓に残したものである。この地域は早い時期

に水田稲作文化の洗礼をうけたが、水稲栽培  http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_05/toukotunotaipu.jpg  に不向きな岩礁性の海岸部や離島に住んでい

た縄文人は土器や石器などの弥生文化要素は

受け入れたものの、伝統的な生業と風習をか

たくなに守り、渡来系農耕民との通婚も拒否

し続けたようだ。

 したがってこのタイプの人々は低身・低顔

という縄文人の形質を色濃く残した。



 なお、この西北九州タイプのヒトについて

新町遺跡の支石墓から出土したことなどか

ら、南朝鮮の低身タイプの渡来人ではないか
 とか、あるいは江南地方からの渡来人ではないかとする学説もあるが確かなことは分らない。
 最後に南九州離島タイプである。沖縄の縄文人は九州の縄文人や西北九州の弥生人と形質的に同じグループに属している。ところがこの南九州離島タイプの人々は沖縄の縄文人とは一線を画しているのである。いちじるしく低身長で短頭(頭を上から見た形がまん丸い)なのである。したがってこのタイプの人々は沖縄や九州の縄文人から形質を引き継いだものではなさそうなのである。渡来人である可能性があるわけである。ただそれ以上のことはまだ分っていない。
 また、下のほうの図はすでに前節で示した図から和佐野喜久生の研究の炭化米部分を除いた図である。吉野ヶ里の甕棺から300体以上の人骨が出土し研究が進んだ結果、福岡平野、佐賀平野の所謂吉野ヶ里タイプの弥生人と土井ヶ浜タイプの弥生人とは体型が少し違い、吉野ヶ里タイプの弥生人の方がややがっちりしている。したがって出身地も違うのではないかという意見が強くなっている。
 http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_05/kyuusyuuno3patern.jpg

  望郷の土井ヶ浜人たち

    http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_05/doigahama_jinnkotu.jpg
 土井ヶ浜遺跡は弥生前期後半から中期中葉の遺跡である。新年代観に従えば2600~2200年前、中国大陸ではまさに春秋戦国時代である。ここの小高い砂丘から300体ちかい人骨が発掘されているが、1,2の例外を除いて全て響灘に顔を向けて眠っている。頭蓋だけが集骨されている区域でもこの原則は破られていない。
 春秋戦国時代の動乱に故郷を棄てざるを得ず土井ヶ浜にたどり着いた彼等は、望郷の念がことのほか強く400年に亘ってこの約束事を守り続けたに違いない。
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_05/doigahamajin_seihokunokokyou.jpg   そして土井ヶ浜人の視線の向こうにはまさし

く水田稲作伝播の最有力ルート、南朝鮮から山

東半島がある。

 山口県豊北町立土井ヶ浜遺跡・人類学ミュー

ジアムの館長、松下孝幸は中国での人骨調査の

先駆者である。中国や朝鮮は日本と同様、酸性 土壌で人骨はなかなか残らない。加えて中国や朝鮮の学者が興味を持つ人骨は北京原人とか
旧人、旧石器時代人などで2000年前程度の骨ではない。なぜならあまりにもいろいろな集団や民族が混血していて、中国人のルーツ探しとか朝鮮人のルーツ探しなどの発想がないからという。
 そういう困難な状況の中、松下に朗報が届く。中国で知り合った人類学者から山東省の臨淄(りんし)という街の研究所に日本の弥生時代に相当する年代の人骨が保管されているらしい、というのである。
 その山東省文物考古研究所には300体以上の人骨が保管してあった。その人骨と人骨の計測結果を統計的に処理した結果が次の図である。
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_05/Rrinnsinojinnkotusyasinn_deta.jpg
左の写真で視覚的に見ても、右の統計グラフで見ても土井ヶ浜人が山東省の人骨によく似ていることが見て取れる。
 その後、松下は河南省の黄河中流域やチベットに隣接する中国奥地でも土井ヶ浜にそっくりの人骨を確認している。
 また中橋孝博を中心とするグループは、上海自

然博物館との共同研究で江蘇省揚州市・胡場遺跡

から出土した5体の頭骨を調べ、北部九州の弥生

人と極めて似ていることが判明している。

 その後、山口敏を団長とする江南人骨日中共同

調査団が「長江下流域の古人骨と北部九州・山口

の渡来系弥生人骨のミトコンドリアDNAが一致   http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_05/kobaiseki.jpg した」と発表している。
 朝鮮半島南部でも北部九州弥生人と近似している人骨が確認されている。
 要するに大陸や半島には探索の幅を広めれば、いろんなところに北部九州の弥生人に似た人たちが居るということが分ってきた。
 しかし筆者は北部九州への渡来人は、その中でもあくまで沿岸部や大河の流域のヒトビトではなかったかと考える。

  金属器 文化を伴う渡来の波

 以上、渡来人を地域別にとらえ、いわば平面的にとらえその故郷を探索してきた。つぎは金属器を軸にして時系列で渡来人を考えよう。
 その前提として中国での金属器の歴史の概要を把握しておきたい。中国の青銅器は夏の時代(4000年前)に始まり、殷(商)代から周代(3500~2800年前)には最盛期をむかえている。この時代は主に祭祀用としてつかわれ、春秋戦国期には観賞用として使われることが多かった。その後は実用的なものにも使われた。春秋戦国期(2800年前~2200年前)には戦闘用の銅剣としても使われた。
 一方鉄器については、まず人工的に鉄が作られるようになったのが周代(西周)の後期であり、およそ2800年前といわれる。武器や農耕具として使われるのは春秋の末乃至戦国時代の初め(2400年まえ前後)からである。 *中国と日本の年代参照は コチラ へ

 北部九州に大陸や半島から到来した文化要素は一度に来たものではなく何回にも分かれて伝わってきた。そのたびに渡来人の集団も出身地を異にした可能性がある。
 福岡県福津市の今川遺跡では遼寧式銅剣の破片を再利用した銅鑿(どうのみ)や銅鏃(どう
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_05/ryouneisikidoukenn.jpg ぞく)が、板付Ⅰ式土器と共に出土した。すなわち菜畑・曲り田段階

から始まった朝鮮南部からの渡来が、当初は稲作技術に加え磨製石器

や支石墓を持つ文化として数百人規模のレベルで始まり、次第に大き

な波となり板付段階では福岡平野一帯を埋め尽くすほどの規模となっ

た。

 しかも遼寧青銅器文化を組み入れた新しい文化クラスター(まとま

り)として到来した。この集団は先に述べた長身・高顔の北部九州型

の典型的渡来人であったと考えてよいであろう。

 この渡来の波はおそらく何波にも及び、いわゆる遠賀川式土器圏一

帯に急速に稲作文化を伝播することとなった。以上を渡来人の大きな

第一波ととらえよう。

*注・・この第一波の中に、曲り田遺跡では不純物の少ない鍛鉄(鋼)を使った板状の鉄斧が、福岡県福津市の今川遺跡では鍛造の鉄鏃が発掘されている。これは新年代でいうと3000年前~2800年前に鉄器が伝わったことを意味する。そうすると先に確認した中国での鉄器の出現より日本の方が早いという矛盾に突き当たる。そしてこのことは新年代に反対する人たちの論拠ともなっている。
これについて詳しく知りたい人は歴博の春成秀爾の説明-3.鉄器の問題を参照してほしい。
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/katudoh/kenkyuhokoku/031221/index.htm

渡来の第二波は弥生前期末から中期初頭という比較的短期間に衝撃的に起きた。春成秀爾に
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_05/toukonoiti.jpg よると、東胡民族の一部が朝鮮半島西北部

に侵入したことを契機に、朝鮮半島で武力

闘争が激化し故郷を捨てなければならない

人が出てきた。戦禍を避けた彼等は北部か

ら玉突き式に移動したのではなく、長躯朝

鮮半島を縦断して南部に達し大部分の人た

ちはその地に落ち着き、一部の人たちは海

峡を越えて北部九州まで達した。

 この朝鮮北部の人たちは当初渡来人だけ で集団を作り大陸から持ち込んださまざまな技術を周辺の在地人に伝えたという。その子孫は徐々に弥生社会と同化して行ったのは当然であるが、その過渡的段階(弥生前期末)で渡来人集落で青銅器生産が始まり、弥生中期後半には弥生集落のなかで行われるようになった。すなわち後発の渡来人もほぼ完全に弥生社会に取り込まれていったのである。
(余談になるが青銅器は中期以降次第に実用性を失い、大型化・装飾化の道をたどり祭器的な銅矛・銅剣や銅鐸として発展し地域共同体の祭りに使われるようになる。)

 また第二波の渡来人の登場と同時期に北部九州平野部に出現し、中期中葉に最盛期を迎えた甕棺墓の被葬者はその80~90%が渡来系弥生人である。この事実は新来の渡来人との混血
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_05/kamekannbo.jpg  

によって縄文人の弥生人化が

極点まで進むと同時に、渡来

形質を一段と強化された弥生

人集団が出来上がったことを

示している。

 この集団は人口が爆発的に

急増する中期前半から遠賀川

式土器拡散のあとをなぞる様

に西日本各地へと拡散・移動し、本土日本人の主要な構成要素となる。(ただし甕棺墓の墓制は北部九州平野部だけの風習に止まっている)

 3000年前、気候の一段の寒冷化のなかで縄文文化、自然循環型の文化が危機に瀕していたとき、北部九州の縄文人の一部が能動的に、また周辺地域の争乱などが追い風となって水田稲作を基盤とする弥生文化が到来し、弥生中期中葉には北部九州で渡来系弥生人が80%以上を占めるようになったことを述べてきた。
 これを別の角度からとらえると縄文人という旧石器以来の基層人のうえを覆うように渡来人が卓越する時代が到来し現代日本人のベースを形成し始めた、ということができる。いわゆる日本人の二重構造の形成が始まったということになる。
 また、縄文人という古モンゴロイド集団に新モンゴロイドの遺伝子がおそらく初めて本格的に混入したと言うことも出来る。すなわち寒冷適応した「胴長で手足が短く、扁平な顔、一重瞼の眼」などの形質をもった人々の遺伝子が大量に入ってきたのである。
(ナラ林文化の交流や日本海文化圏での交流などで縄文時代にも少しづつは新モンゴロイドの血が混じっていたかもしれない)


[ 本帖最后由 baiyueren 于 2009-3-11 11:28 编辑 ]

baiyueren 发表于 2009-3-11 10:35

 九州北部的弥生人譬如从背振山地西边的西边北九州沿海部和东方平原部的弥生人,第一次将完全异质的集体的事情表明了的是内藤芳笃。之后内藤九州弥生人更进一步向 3 群如分开,左图那样出示了。
 首先北九州 ?山口类型的弥生人骨,以平原部以耕作为主要实况业,死后是大形甕棺主体作为丰富的殉葬品大规模的墓地是跟随埋葬了的人们的骨灰。在这个地区绳文人们是输入系耕作公民的新接受四周技术和血,文化的也身体质的(高个子 ?高脸 ??注 - 人类头盖子骨的测量 )
在 也均质的集体诞生了。
 一方面,西边北九州类型的弥生人骨是岩礁性的以海边部从事捕鱼撈的人们是极限第之后随着身体弱的殉葬品小规模的土地壙古墓和石棺在古墓留下了。这个地区是早的时期在星期三接受了田稻子收成文化的洗礼 , 然而水稻栽培在向不合适的岩礁性的海边部和离岛住绳文人是瓦器和石器等弥生文化要素是接受了还没,传统的实况业和风俗吗煮什么保护,也拒绝和输入系耕作公民的精通婚既好像继续了。又~所以这个类型的人们是低身体 ?低脸所谓的绳文人的形态和实质颜色深地留下了。
 还有,关于这个西边北九州类型的人类从新城市故址的史前墓的遗迹出土了等吗们,韩国低身体类型的输入人不是吗啦,或者来自江南地方的输入人不是或和也有做的学说确实的事情是不。
 最后是南边九州离岛类型。冲绳的绳文人是九州的绳文人当西边北九州的弥生之时人和向形质地向相同团体属于。地方这个南边九州离岛类型的人们是冲绳的绳文人所谓正在划分界线。显着的低身高用短头 (从上看来了头的形溜圆)就是。所以这个类型的人们是冲绳和九州的绳文人从在继承了形态和实质的东西似乎没有。输入人是有可能性的理由。只是更多的事情还没分开。
 而且,下方面的图是已经从因前节而表示了的图除去了和气佐野喜久不掺研究的炭化美国一部份的图。从吉野ヶ村落的甕棺 300 体以上人骨出土更加研究了的结果,福冈平原,佐贺平原所谓吉野ヶ村落类型的弥生人和土地井ヶ海边类型的弥生人所谓身体型稍微不同,吉野ヶ村落类型的弥生人的方面稍微结实。所以出生地也是否不是不同的意见变强烈。
 
  思乡的土地井ヶ住在海滨者们
   
 土地井ヶ海边故址是从弥生初期后半起中叶中世的故址。新年代死心在率领如果在 2600  ̄ 2200 年前,中国大陆文蛤吧在是春天秋天战国时代。这里的稍高从砂丘 300 体誓人骨发掘,然而除去 1,2 的例外全部在响声急湍上朝脸正在睡觉。头盖子只有即使被集骨的地区也没弄破这个原则。
 春天秋天战国时代的骚动在故乡棄之后不没得到而前进到达了土地井ヶ海边他们,思乡的心愿事情的另外强烈涉及 400 年持续保护了这个规定在不同。然后对土地井ヶ住在海滨者视线的对面而言雅史从く星期三田稻子收成传播的最有力路线,韩国山有东方半岛。
 山口县丰北镇立土地井ヶ海边故址 ?人类学 miew ziamu 的馆长,松下孝幸福中国的人骨调查的是先驱者。中国、朝鲜是和日本一样,酸性土壤用人骨非常没残留。增加中国和朝鲜学者带有兴趣的人骨是北京原人啦像旧人,旧石器时代人不是 2000 年前程度的骨。因为过于也因各式各样的集体和民族混血做而没有射手,中国人的根寻找或朝鲜人的根寻找等思想表达因为所谓的。
 那样的困难的情况的里面,松下喜讯送到。从在中国认识了的人类学者山东方省的臨 ?( 临床试验 ) 所谓的看来向街的研究所日本的弥生时代适合的年代的人骨保管,所谓的。
 在那座山东方省文物考古研究所 300 体以上人骨保管着。统计处理了那个人骨和人骨的测量结果的结果是下一个图。尽管以左的照片视觉看,即使以右边的统计图解看土地井ヶ住在海滨者向山东方省的人骨很相似能看穿。
 之后,松下即使紧邻河南边省的黄河中游水平和西藏的中国内地也在土地井ヶ海边上确认一模一样的人骨。而且中桥孝博中心作为团体是上海自和如此博物馆的共同研究 , 海湾蘇省揚州市 ?胡场故址从调查出土了的 5 身体的头骨,北九州的弥生和人非常相似揭晓。
 之后,山口敏锐团长作为江南人骨白天共同调查团「长海湾下游水平的古人骨和北九州 ?山口的输入系弥生人骨的线粒体 DNA 是一致  
做了」和发表。 尽管朝鲜半岛南部北九州弥生人和近似的人骨确认。总之在大陆和半岛传播探索的宽度如果,各种地方在北九州的弥生人在相似了的人们有的事情分开了。但是笔者往北九州的输入人,那个尤其坚持到底过去不是沿海部和大河流域的人们或和想。
  伴随金属容器文化的输入的波
以上,把输入人当作地区不同抓住,可以说平面抓住探索做了那个故乡。以假牙金属容器为卷轴之后点以系列想输入人吧 !
 想作为那个前堤而事先抓住中国的金属容器历史的概要。中国的青铜容器夏天时代 (4000 年前 ) 开始,在从殷 ( 商 ) 原料周年代 (3500  ̄ 2800 年前 ) 迎接最盛期。最近时代是作为主要是祭祀用途了代替,春天秋天战国时期作为观赏用途而使用很多。之后 , 实用的东西也使用了。春天秋天战国时期 (2800 年前 ̄ 2200 年前 ) 即使战斗用途的铜剑使用了。
 关于一方面铁器,首先人工铁变得能作了的是周年代 ( 西边周 ) 的后期,被认为大概 2800 年前。武器以耕作具备使用的是因为春天秋天末尾乃至战国时代开始 (2400 年前左右 ) 。 *中国和日本的年代参照给这里 在北九州从大陆和半岛到来了的文化要素同时不应该来了的几次也分开传了。其他微小在输入人的集体也有让出生地不同了的可能性。
 在福冈县幸福码头市的今川故址再利用了遼寧式铜剑的碎片的铜鑿 ( 如何只有 ) 和铜矛头 ( 如何 风俗 ) ,随着板加Ⅰ式瓦器出土了。即是菜园 ?转弯田阶段从开始了的来自朝鲜南部的输入,当初是增加稻子收成技术磨制品石器当作为带有史前墓的遗迹的文化而以数百人规模的水平开始之时,顺序在大黄色的成为波,在板加阶段占满福冈平原一带完全限度的规模和的。而且编入了遼寧蓝铜器文化的新的文化住宅群(的再矣)作为到来了。这个集体是高个子先发表了 ?高脸的北九州型的典型的输入人和想之后好话吧 !之后这个输入的波是也许弄波也和,所谓远的贺川式瓦器圈最初向腰带迅速地传播稻子收成文化了。以上输入人的大的和第一波抓住吧 !
*注 ??对这个第一波里面,转弯在田故址使用了不纯东西少锻铁 ( 钢 ) 的板状的铁斧头在福冈县幸福码头市的今川故址鍛造的铁矛头发掘。这个新年年代就说 ,3000 年前 ̄ 2800 年前铁器意味传了。如此一来先确认了的中国的铁器的出现从日本的方面早所谓的向矛盾撞上。然后这个事情反对新年年代的人们的论据和也结果。关于这个详细地知道的人是经历博的春天成秀尔的说明 -3.希望参照铁器的问题。
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/katudoh/kenkyuhokoku/031221/index.htm
输入的第二波是从弥生初期末起中叶初期所谓的比较向短期冲击起床了。春天成秀尔在晚上和,东方胡民族的一部份朝鲜半岛西边北部在以侵入了的事情为契机,在朝鲜半岛武力斗争激烈化必须扔掉故乡出现人了。避开了战祸他们是北部吗 们向撞球式移动了因为是没有,高个子早上纵贯鮮半岛达到南部大部分的人血在那个当地沉着,一部份的人们是海越过峡到北九州达到了。
 这个朝鲜北部人们当初输入人只有那么据说传达四周在地人作集体从大陆带入了的各式各样的技术了。那个子孙徐徐和弥生社会同化、去了的是理所当然然而,那个过渡的阶段 ( 弥生初期末 ) 用输入人以村落蓝铜器生产开始,弥生中叶后半在弥生村落里面变得举行了。即是后出发的输入人也被大部分完全被弥生社会拉拢了。
(成为废话然而青铜容器是中叶随以后错过实用性,大型化 ?前进装饰化的道路祭器的铜武器 ?变得作为铜剑和铜铎而发展被地区共同体的祭典使用。)而且第二波的输入人的出现和该时期向北九州平原部出现,在中叶中世上迎接了最盛期的甕棺古墓被褥葬礼者是之 80  ̄ 90 %输入系弥生人。这个事实新来的输入人和的混血在叫做よ绳文人的弥生人化为然而前进到极点一就~同时,输入更将形态和实质被加强了的弥生人集体完成了表示。
 这个集体人口爆发性
从遽增的中叶前半起远贺河描式瓦器扩散的后的样子在到西日本各地和扩散 ?移动既,又~成为本土日本人主要构成要素。(但是甕棺古墓古墓制北九州平原部只有的向风俗停止)
 在 3000 年前,气候的一段的寒冷化里面绳文文化,自然循环型的文化向危机濒临的时候,北九州的绳文人的一部份主动的,而且四周地区的天下大乱等成为顺风之后星期三田稻子收成基础作为弥生文化到来,在弥生中叶中世在北九州输入系弥生人发表了变得占了 80 %以上。
 从另外的角度擒获这个一就~绳文人所谓的旧石器以来的基础人的上遮蔽好像输入人超群做的时代到来开始形成了现代日本人的基础,完成这种事情。所谓日本人二重构造的形成在开始了的琴似结果。
 而且,绳文人所谓的旧蒙古人种集体新蒙古人种的遗传因子也许第一次正式地搀入了也能说。即是带有了寒冷适应了的「胴长而手和脚很短,扁平的脸,一层眼皮的要点」等形态和实质的人们的遗传因子大量的进入了。(那么林文化的交流和日本海文化圈的交流等用绳文时代也稍微づ了是新蒙古人种的血夹杂也许)

阪泉之野 发表于 2009-3-11 10:39

土井ヶ浜遺跡は弥生前期後半から中期中葉の遺跡である。新年代観に従えば2600~2200年前、中国大陸ではまさに春秋戦国時代である。ここの小高い砂丘から300体ちかい人骨が発掘されているが、1,2の例外を除いて全て響灘に顔を向けて眠っている。頭蓋だけが集骨されている区域でもこの原則は破られていない。
 春秋戦国時代の動乱に故郷を棄てざるを得ず土井ヶ浜にたどり着いた彼等は、望郷の念がことのほか強く400年に亘ってこの約束事を守り続けたに違いない。

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300遗民齐望乡,太感人了。

baiyueren 发表于 2009-3-11 10:47

这篇文章很明确地区分出了来自大陆的弥生人——高身材,高面(金隈人),弥生人和绳文人的混合类型——低身材,低面(大友人,西北九州),还有一种特殊类型,估计是港川人类型——低身材、圆头、低面、短颈(广田人,南九州鹿儿岛)

阪泉之野 发表于 2009-3-11 10:54

这些弥生人大概是以村落/部族/家族为集团,乘船逃离兵荒马乱中的大陆。

阪泉之野 发表于 2009-3-11 11:09

在乡村地带,同一村落或区域的人相貌类似。我有一好友,来自浙江金华农村,某天去他宿舍串门,一进去惊呆了,里面7,8个男青年都酷似那位好友:长尖脸,高颧骨,大鼻头,细眼睛。。。一问才知他们是同村老乡。

baiyueren 发表于 2009-3-11 11:17

日本语言和稻作起源学说

第3部 弥生文化と渡来人の登場

06.タミル語とミッシングリンク

それにしても日本の各学問分野の排他的体質や閉鎖性はかなりなものだ。学際的研究の必要性や他分野との共同研究が、声高に唱えられる割には実態は遅々として進んでいない。

 たとえば第1部で取り上げた松本秀雄の「Gm遺伝子」の研究は、大変な労作で日本人の起源を論じる際決して無視してはならない秀逸な研究だと思われるが、松本が法医学の分野の権威ではあるが、遺伝学や人類遺伝学の分野の学者ではないということで、殆ど無視されているように感じられる。

 また、この後取り上げる安本美典の「計量言語学による日本語の起源」の研究も、大変すぐれた研究だと思われるが、安本が本来統計学が専門の学者(筆者の見方)で、言語学者ではないということで、言語学界からは拒否され続けている。
 しかし言語学に関係のない民族学の佐々木高明らは、公平な立場から安本の研究を高く評価していることを付記しておきたい。(「日本の歴史① 日本史誕生」p256)

 このような状況はまことに残念なことであるが、それだけに学界とは何の関係もない筆者のような立場のものが、その研究内容の素晴らしさを声を大にして喧伝する必要性を感じるのである。

 これから取り上げる大野晋(2008年没)も国語学者が言語学に口を出すなと言わんばかりに不評である。 もちろん不評な理由には比較語彙の取り扱いとか、歴史解釈の乱暴さなど正当な理由も存在する。
 しかし研究の問題点の方を大きく取り上げ、それに加え日頃の本人の人柄を重ね合わせて葬り去る、という狭量さが罷り通っていては学問の進歩はありえない。
 筆者はこの項で大野晋のタミル語同系説の中の有用な部分を指摘して、そういう風潮に一矢報いたい。

  日本語・タミル語同系説
 
 まず大野晋の説「日本語・タミル語同系説」を概観しよう。テキストは大野の著書・岩波新書の「日本語の起源」による。
 インドは10億人を超える人口を擁し、多様な人種 、民族、言語、宗教によって構成されて

いる。日常の社会生活で使われている言語は850にものぼるといわれる。(詳しくは ココ を参照ください。)
 語族で纏めると、インド・ヨーロッパ語族が74%(ヒンディー語・サンスクリット語系)、ドラヴィダ語族が24%を占めるといわれる。
 そのドラヴィダ語族の一つがタミル語であり、右図はドラヴィダ諸語ごとの現代の使用地域分布である。 http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_06/indo_tamiru_tihou.jpg 大野は日本語とタミル語が同系であるという、その証拠として次の5点をあげている。
 1.すべての音素(a/i/u/e/oなどの母音やk/s/t/n/h/m/y/r/wなどの子音のこと)にわ
  たって音韻の対応がある。
 2.対応する単語が基礎語を中心に500語近くある。
 3.文法上、ともに 膠着語 に属し、構造的に共通である。
 4.基本的な助詞・助動詞が音韻と用法の上で対応する。
 5.歌の五七五七七の韻律が共通に見出される。

 以上の五ケ条は、日本語とタミル語が同系の言語であると考えることによって始めて理解できることである、と大野は記述している。
 もちろん詳細は省くが、日本語とタミル語とで相違する点もある。
 それは大野によれば、日本の地にタミル語が入ってくる遥か以前から使われていた言語、すなわち「基層言語」の古い性格が生き残ったためと説明する。
 つまり、日本に非常に古く、基層言語としてポリネシア語族の一つに近い、音韻組織を持っていた何らかの言語があったところへ、タミル語が覆ったという事情が推測される。
 ちょうどそれは、ケルト語という基層言語が使われていた地方に、ラテン語を伴ったラテン文化が進出してきてフランス語が成立したのと同じ事情であった、という。
 
   農耕に関する言葉

 筆者は、ここで日本語とタミル語が言語学的に同系であるという証明の当否を深く論ずるつもりはないし、またその能力もない。
 筆者が注目するのは2.の対応する単語500語の中にある「農耕に関する言葉」である。

 筆者は以前より言語学に不満を抱いていた。
 それは日本語と同系の言語が近隣の民族に見出せない、あるいは言語学者が日本語の起源を探り当てることが出来ないからではない。
 おそらくそれは現在ではなかなか困難な作業かもしれない。なぜなら同系と証明される言語はすでにこの地球上には存在していないかもしれないからである。また、日本語の基層に有った言語というのは、それほど古い言語かもしれないからである。
 しかし、新しい文化や技術が日本に押し寄せた場合、すなわちラテン文化がフランス地方に押し寄せたように、それは新しい単語や語彙、文法体系を持ち込んだはずである。
 このようなことは、例えばコンピューターなどの分野で現代の我々も、イヤというほど経験させられている。
 これと同様なことが、たかだか、旧年代観でいえば2500、600年前、新年代観で言えば2800~3000年前に、本格的水田稲作農耕文化が渡来したとき、北部九州で引き起こされていたに違いないのである。
 しかもそれは、自然循環系の生活文化を、農耕という人為的な生活文化に一変させたほど、強大な影響力を持つものであった。当然言語にも計り知れないほどの影響を与えた、すなわち基層言語の根幹に影響を与え、新しい語彙を大量に受け入れたに違いない。

 農耕技術をこの日本列島に持ち込んだ人たちが在地の縄文人に技術や知識を伝えたり、農作業への使役ないし協力を求めたとき、彼等は彼らの農耕用語を現地語(縄文語)に織り交ぜながら使ったはずである。
 筆者の不満は、これまで言語学の分野では、この日本列島に確かに外来語として持ち込まれたはずの水田稲作に関する用語、語彙をもつ言語を日本以外の地域に片鱗でも見出すことが出来ず、沈黙を決め込んできたことである。(筆者の不勉強かも知れないが・・・)
 水田稲作農耕の伝播経路の地域に、より具体的にいえば、北部九州よりやや早い時期に水田稲作を受け入れ、北部九州への直接の伝播元となった南部朝鮮に、日本語の農耕用語と起源を同じくする語彙が残っているのではないか、このような想定は誰でも可能であろう。

 大野晋は、「日本語の起源」のなかに「対応語と物の世界-稲作の始まり」という一項を設け、「農耕に関する言葉」を
 ・ 日本語とタミル語に共通するものとして27語 、
 ・ 日本語と朝鮮語に共通するものとして9語 、
 ・ 日本語、朝鮮語、タミル語の三言語に共通するものとして5語
を提示している。
 次の表は、その大野が掲げている三つの表を筆者が一表に纏めたものである。
    http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_06/noukou_kannsuru_kotoba.jpg
 
 筆者にはこの表の語彙の対応が言語学的にどれほど正確なのか、論評する能力はない。
 しかし、これほどの数の稲作農耕に関する言葉を提示しえたのは、大野晋が初めてだと思う。このことだけでも高く評価されてしかるべきだと考える。

  新たな発見-水田稲作の第1次伝播と第2次伝播の痕跡-

 さらに、三表を一表に纏めることによって、筆者には新たな発見があった。
 上表の日本語に対応する朝鮮語は計10語であるが、そのうち7語が“農具を主とする道具”に関するものである。このことは次のような事情を推測をさせる。
 筆者はこの第3部の04.で寺沢薫の弥生文化に関する“規定”を紹介した。
それは大略次のようなものであった。
・・・弥生時代の水稲農耕文化は、落葉樹林型と照葉樹林型の二つの重なりにある。前者は、朝鮮半島南部から玄界灘沿岸に伝わり、弥生文化の骨子となった。後者は照葉樹林帯を貫いて一歩遅れて伝播した水稲主体の文化で、弥生文化の肉になったといってもよい。・・・

 この弥生文化規定の観点から、上の表を見ると、「農耕にかかわる言葉」のうち、耕作地や作物、食品など多くの農耕用語がタミル語から取り入れられているのに、一部の道具に係る用語は朝鮮語起源(おそらく長江中・下流域~山東半島起源)となっている。
 これは、とりあえず大野のタミル語説を無視して稲作文化の伝播との関連を考えると、次のように解釈される。
 水田稲作の第一波・朝鮮南部からの農耕文化が、高度に完成した包括的な水田稲作農耕の技術を伝えたことは間違いない。しかし当初は、農耕土木や農具など水田稲作を行うに当たっての必要最低限の具体的な“技術や道具”が特に重要であったと考えられる。
 次に少し遅れて直接伝播した長江中・下流域からの水田稲作文化は、水田稲作の源流だけにとどまらず照葉樹林文化を基盤として発展した文化体系を持っていた。しかも照葉樹林文化は、すでに縄文時代に西日本に伝播し根付いていた。
 すなわち北部九州ないし西日本人にとって、大変受け入れやすい性格を持っていた。
 したがって、この第二波の水田稲作文化は第一波のそれを凌駕し、日本の稲作文化に現在に至るまで深く根付いてきた。
 こうした時系列推移が考えられる中、農耕生活文化の大半の用語が第二波の言語から取り込まれて現在に至り、第一波の言語は農具などの技術的な用語を残すのみとなった。こういうことが推定できるのではないかと考えるのである。
 
 南インドの文化と弥生文化の同質性

 大野は、南インドのタミル地方から遥々7,000キロを越えて伝来したタミル語を、基層言語である縄文語が受け入れ、同化したという雄大な、というより奇想天外な構想を説明するのに、言語学だけにとどまらず“南インドの文化と弥生文化”がパラレルに展開していたことをもって、その根拠としている。
 それは新年代観を反映させるとさらに明確となる。なんと南インドの巨石時代と日本の弥生時代は3000年前、同時期に始まり、下図の青枠で囲んだ5項目すなわち、
 ①粟作・稲作の農耕が行われていた。
 ②墳丘墓・土壙墓・箱式石棺に加え、支石墓や甕棺墓まで存在する。
 ③土器に多種類の同じグラフィティ(考古学用語で、壁・土器などに刻まれた古代の絵画や
  文字)が彫りこまれている。
  http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_06/graffiti.jpg
 ④青銅器・鉄器が同時に使われていた。
 ⑤機織が始まった。
が平行して存在した。
 下表左側は大野が提示しているものであるが、右側の部分は新年代観で筆者が修正してみたものである。
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_06/minamiinndo_nipponn2.jpg
 
 なぜ日本と南インドにほぼ同時代、共通する文化が存在するのか。大野は自ら質問を用意しそれに答えている。(「日本語の起源-私の説に対する質疑」p223)

問1.7000キロも隔たった途中にこれらの文明的事象の平行の例があるのか。
 インドのマイソール大学のラマンナ博士によれば南インドの巨石文化は東南アジアに広まり
 フィリピンや台湾まで達しているそうである。この研究時点で日本と朝鮮の考古データが手
 に入らず研究対象から外れているが、台湾から北九州、南朝鮮への流れは全く自然であると
 言う。
 (筆者はこのラマンナ博士の見解には同意しかねる。フィリピン・台湾からの流れ、すなわ
  ち「海上の道」はこれまでの検討ではあまり機能してこなかった。このルートを辿る文化
  の流れは、断続的で、断片的で、かつ希薄である。
   フィリピン・台湾から南西諸島への強い文化伝播の痕跡はない。)

問2.タミルから文明が来たというが、タミル人が来た証拠があるか。
  大野はこの問に「来た」と答える。その証拠として
 タミル語の“pul-am”(村・区域)は日本書紀に出てくる“フレ(fure)(村)”に対 
 応する単語であるという。
  そして現在でもそのフレを使う地域が長崎県壱岐に存在するという。東触、西触、・・仲
 触、大久保触・・・など100例に及ぶという。
       http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_06/nagasakikenn_ikisi_gounoura.jpg
 (仮に、pul-am=fureという対応が正しいとして、地図で調べると確かにたとえば壱岐市郷
  ノ浦町 東触はじめ、いろんな“触”が島全体に実在する。しかしこの壱岐島だけの証拠
  でタミル人が来たと言えるだろうか。タミル人が言語にそれほど大きな影響を与えたとす
  るなら、もっと広汎な地域に触という地名が残っていて良いのではないだろうか。)

問3.タミルと日本の間に両者の言語の仲介地となるような場所があるか。
 タミル語や日本語に近い言語が話されている所は、いまのところ明らかなものはないと、大野は言う。
 そういうところはないけれども、タミル語は確実に朝鮮語にも約400の対応語を残しているとしている。
 右表はそのうち農耕にかかわる単語で且つタミル語、日本語、朝鮮語に共通するものである。   http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_06/tyousenngo_tamirugo2.jpg 南インドの文化が遥々日本に影響を与えたとすれば、同時に朝鮮半島に影響を与えたとしても不思議ではない。これは、問の「言語の仲介地」ではなく、朝鮮半島が日本列島と同時に同じ言語の影響を受けたという証明に過ぎないのではなかろうか。
 
 要はタミルと日本の文化の平行について大野晋は、自ら言語学の範疇を越えて文化的側面から、その正当性を証明しようと試みたにも拘わらず、7000キロの距離を越えてタミルの文化が日本列島に到達したという、説得力のある説明が出来ないでいる。この点もタミル語日本語同系説が受け入れられない理由の一つであろう。

   タミル語と日本語のミッシングリンク

 筆者は、大野晋の稲作に関する同系の語彙の発見、この素晴らしい成果をタミル人が北部九州に渡来して稲作を伝え語彙を残したという、荒唐無稽な文化伝播説に埋もれさせてはならないと思うのである。
  
“南インドの文化と弥生文化”に共通する上記5項目のうち、筆者がとりわけ注目するのは甕棺墓が両方の文化で同時期に存在することである。
 甕棺墓は幼い子供を葬るときに、しばしば各地で使われる墓制である。日本でも縄文時代から存在するし、東アジアや東南アジア各地で見られる。
 しかし大人の墓制としての甕棺墓は必ずしも普遍的ではない。

 第3部04.項で詳しく見たように、日本列島でも北部九州の、それも福岡・佐賀両平野に一時 的に存在しただけである。
 弥生前期末、突然北部九州平野部に出現し、弥生中期中葉に最盛期を迎え、その後弥生後期には衰微してしまう。
 一つの集団墓地には甕棺墓が数百~数千の規模で埋まっている。  http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_05/kamekannbo.jpg  大野によると、これと同様の甕棺墓群が南インドでも見られるそうである。(下の写真は大野自身が撮影したものという)
  http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_06/minamiinndo_kamekann708.jpg
 南インドの甕棺は、インド巨石時代のはじめ、紀元前1,000年ごろから南インド全体に広汎に存在し、たとえばタミル州南端に近いアーディチャナルールという所には、何万という甕棺の原があるという。また大野が実見した上の写真のアミルタマンガラム遺跡も、数百規模の甕棺墓群があるという。
 大野はこうした事実から、タミル人がタミル語とともに甕棺とそれを墓として使うという思想・習慣を北部九州に伝えたと言いたいらしい。
 もしそうだとすると、甕棺の製作技術や埋葬の方法まで、北部九州のそれと南インド・タミル地方のそれが共通していることが必要である。
 しかし事はそう簡単ではない。
 人類学ミュージアム館長の松下孝幸は「日本人と弥生人」(p95)という著書の中で、
・・・この大型の成人用の甕棺がどこから来たのか、現時点では判明していない。中国はもちろんインドまで探しに行った学者もいるが、決定的なことはわかっていない。・・・
と著述している。すなわち、インドの甕棺と北部九州の甕棺が同じものだという確証はないと言うのである。
 この甕棺墓は支石墓のように朝鮮から伝播した文化でもない。甕棺墓のルーツを探りかね、九州周辺の学者の間では、この甕棺は弥生文化に独自なもの、メイド・イン・ジャパンではないかと言う学者も少なくないくらいである。

 そこで筆者は一つの仮説を提示したい。
 それは南インドと日本列島の間にミッシングリンク(この言葉は、本来は、生物の進化・系統において、化石生物の存在が予測されるのに発見されていない間隙を意味する。)が存在したのではないか、という考えである。
 仮説:
 3,000年前長江中・下流域に、先に大野が挙げた5項目の文化を包含した集団がいた。
彼らは、黄河流域から南下してきた集団との戦いに敗れ、一部は東に、一部は西に南に逃れた。
 東に逃れたうちの一派は北部九州にたどり着き、弥生前期後半に甕棺墓の風習や弥生文化の多くを広めることになった。
 一方西に逃れた一派は、雲南センターを経由して更に西に進みドラヴィダ族のタミル集団に稲作とやはり甕棺墓などの弥生文化に並行する文化をもたらした。
 この結果、日本列島と南インド地方には、あたかも南インドの文化や言語が日本列島に伝来したかのごとく、同じ文化や言語がほとんど同時期に平行して存在するという状態を現出した。こういう風に考えれば大野晋の日本語タミル語同系論は無理なく説明できると考えるのである。
 長江中・下流域で日本語に取り入れられた稲作農耕用語を使い、成人の大型甕棺墓文化などを持っていた民族集団がミッシングリンクの候補となる。
 その民族集団はすでに他の集団に吸収されるなどの理由で消滅してしまっているかもしれず、したがって数ある中国の少数民族のなかにも日本語の稲作用語の源流と考えられる言語が見出せないのかもしれない。(ミッシングリンクの発生を図示すると次のようになる。)
  http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_06/ja_tamiru_to_missing_rink.jpg

 筆者はこれまで、縄文稲作から弥生の水田稲作まで、渡部忠世や王在徳、佐々木高明、安田喜憲、佐藤洋一郎等の説をかなり詳しく学んできた。それぞれ要約すると
 渡部忠世・・・稲作はアッサム雲南センターで発生し、四方に広がったことを明らかにし
        た。
 王在徳・・・・河姆渡遺跡などの発掘を通じ稲作は長江中・下流域で発生し、次第に周辺
        に広がったとする説を提示した。今や主流である。
 佐々木高明・・アッサム雲南センターを含む東亜半月弧を設定し、そこから照葉樹林文化
        が日本列島に伝来したとした。
 安田喜憲・・・寒冷化という気候の変動が、黄河方面の畑作牧畜民の何波にも亘る南下を
        招き、長江の稲作漁撈民を侵略した。その結果、長江の民族集団は逃避
        し、四散することになったことを明らかにした。
 佐藤洋一郎・・稲作の長江中・下流域発生説ををイネのDNA分析から証明した。

 多数の学者の考えを融合し、まとめて図示すると次のようになる。
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_06/ine_no_dennpann_no_yousu.jpg
   
 この図は上図のミッシングリンク仮説とピッタリと一致し、仮説の可能性・正当性を強く支持しているように思われる。
  もちろんこの仮説の証明には各方面からの検証が必要であろう。
 たとえば学者の意見を集約すると、北部九州の甕棺墓と南インドの甕棺墓、さらには石家河遺跡などの長江中・下流域の甕棺が、形状や製作技術に於いて、それぞれ異なっているようである。
 とすると、ミッシングリンクに当たる民族集団の、甕棺墓の思想や死者に相対する考え方が北部九州や南インドに伝わり、現地の土器製作技術や現地の従来からの土器形状と一体となって、それぞれの甕棺墓文化を創ったと考えなければならない。

 このように今後多くの検証が必要であるとしても、大野晋のタミル語説が、数多くの稲作農耕用語を提示してくれたことによって、東アジアの広域に亘る文化伝播の構図が一層明らかとなり、且つ日本語の中の稲作語彙の起源を微かに示してくれたと、筆者は高く評価するのである。

baiyueren 发表于 2009-3-11 11:21

假说:
  3,000 年前长 ?下游水平在,有先包含了大野举行了的 5 项目的文化的集体了。
他们,向从黄河流域南下了的和集体的战争败北,一部份是东方在,一部份在西边向南边逃走了。
 向东方逃走了的内的一派是在北九州前进套黄色,弥生初期后半甕棺古墓的风俗和弥生文化的多半传播。
 在一方面西边逃走了的一派,造成了经过云南边中心更进一步在西边向进度 dolavida 族的 tamiru 集体和稻子收成仍然向甕棺古墓等弥生文化并行的文化。
 在这个结果,日本列岛和南边印度地方,如同南边印度的文化和语言向日本列岛传来了或的如,相同文化和语言出现了大部分该时期平行存在的情况。
厚意想要如果向风想的话就认为大野晋的日文 tamiru 语言同一系统议论是能勉强的く说明。
 长 ?带有派去,成人的大型甕棺古墓文化等以下游水平被日文被收获了的稻子收成耕作用语的民族集体成为 misymg 连结的候选人。
 那个民族集体已经以向其他的集体被吸收等理由已消灭或也做,所以有数量的中国少数民族的特别是被认为日文稻子收成用语的源流的语言没能发现的也许。(图标 misymg 连结的发生 , 如下情况。)
  

 笔者是直到今天,绳文稻子收成从弥生的星期三田稻子收成到,相当详细地学习来了渡部忠世和国王在道德,佐佐木高明,安田喜憲,佐藤洋一家臣的主张。各自归纳一
 渡部忠世 ???在阿萨姆云南边中心发生稻子收成,向四周扩大了水落石出西边
        。
 国王在道德???? 透过河姆渡故址等发掘稻子收成长 ? 以下游水平发生,顺序在四周
        在扩大了作为出示了主张。现在正是是主流。
 佐佐木高明 ??含有阿萨姆云南边中心的东亚半月设立弧,从那里常绿阔叶林文化
        作为向日本列岛传来了。
 安田喜憲 ???寒冷化的气候的变动,黄河方面畑作品畜牧公民的几波浪也涉及的南下
        邀请,侵略了长海湾稻子收成捕鱼撈公民。那个结果,长海湾的民族集体是逃避
        既,又~表明了各自散去了。
 佐藤洋一郎 ??稻子收成的长 ?放下流域发生主张从依根的 DNA 分析证明了。

 多数学者的想法融合,解决图标 , 如下情况。

   
 这个图上图的 misymg 连结假说和吻合一致,假说的可能性 ?认为以便强烈地支持正当性。
  当然在这个假说的证明时从各方面查证以必要话吧 !
 例如综合学者的意见的话,北九州甕棺古墓和南边印度甕棺古墓,还有 , 河故址等长 ?下游水平的甕棺形状和制作技术於射手,好像各自不同。
 作为和,相当于 misymg 连结的民族集体的,向甕棺古墓的思想和死者面位面的想法在北九州、南边印度成为从传播,当地的瓦器制作技术和当地的以前瓦器形状和同心协力,然后创造了各别的甕棺古墓文化和想法如果没有没变成。

 这样地很多的查证是今后必要即使,大野晋的 tamiru 语言主张,出示许多的稻子收成耕作用语之后帮根据事情,在东亚广域涉及的文化传播的结构成为一层水落石出,而且微弱地表示日文里面稻子收成语汇的起源给了的话,笔者评价高。

baiyueren 发表于 2009-3-11 11:26

这个稻作起源学说很有意思,与O2b的分布也基本吻合,只是把它归结为4000年前黄河文明的侵略,时间上太晚了些。

阪泉之野 发表于 2009-3-11 11:36

3000年前应该是周朝前期,周人(比如周公)为了保证其胜利成果,接二连三的发起东征和南伐,打击殷商“顽民”和黄淮流域的东夷。

baiyueren 发表于 2009-3-11 11:38

弥生渡来人の再整理

 縄文時代晩期、逼塞状態にあったこの日本列島に朝鮮南部から水田稲作農耕技術が伝播した。その最初期の農耕技術をもたらしたのは実は縄文人自身だったという見方があるが、いずれにしろ朝鮮ないしは山東半島からの渡来人が技術指導に携わったことも確かである。
 ただこの菜畑曲り田段階の渡来は数百人の規模であったとされる。微妙なのは糸島半島の新町遺跡の支石墓から出土した人骨が一般に言われているように縄文人そのものであったか、江南地方の低身長・低顔型の人であったかということであろう。もし後者であればこの段階で江南地方の人々が直接渡来してきて、西北九州から北部九州の一部まで達していた可能性が考えられる。
 
 次の渡来の波は200年後、板付遺跡を初めとする福岡平野への渡来である。この渡来も朝鮮半島南部からということが確実であるが、規模はかなり大きく福岡平野から北部九州を埋め尽くし遠賀川式土器拡散の発端となった。
 その後おそらく2、300年の間に、長江中・下流域ないし江南地方からの直接の渡来があったと考えられる。それを端的に現すものが高床倉庫すなわち高床の穀倉である。その渡来の影響がいかに大きかったかは伊勢神宮の神殿が高床穀倉の形をそのまま伝えていることからも推測できる。
 さらに土ヘンの環壕集落が大勢を占める中、水ヘンの環濠集落が散在しているのも長江中・下流域からの文化の伝播を裏付けるものである。
 また、05.で朝鮮北部からの渡来と時期を

同じくするとして扱った甕棺墓について、

その後の検討から長江系ではないかと考え

るようになった。大人用の甕棺墓の文化が

東南アジアや南インドのタミル地方など

南方に見られるからである。また右図に見

るように甕棺墓の隆盛は中期からであるが

弥生前期から少しずつではあるが造られて

いたという調査結果が出ていることもある。  http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_08/kamekannbosuunosuii2.jpg次の渡来の大きな波は弥生前期末2400~2500年前、朝鮮半島北部から中国東北部の青銅器文化の影響を受けた人々の渡来である。彼等は中国東北部の東胡(のちの鮮卑、烏丸)の侵入を受け朝鮮半島で武力闘争が激化する中、戦禍を逃れてきた人々でありその集団の規模はそれまでの渡来人の規模と比べ、かなり大きかったと言われている。
 以上を一覧表にすると次のようになる。
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_08/toraijinnnoryuunyuu1.jpg

 弥生時代の渡来人の規模

 埴原和郎はかって「100万人渡来説」として有名になった渡来人数の試算を発表している。
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_08/100mannninntoraisetu.jpg
これがその試算表である。ただしこの試算は当時の年代観のもと、弥生初めから奈良時代中葉までの1000年間の渡来人の試算である。埴原はこの間の人口急増は農耕社会に大転換したといっても、通常の農耕社会の人口増加率ではとても説明できない。 
 その不足分を補うには130万人~150万

人、すなわち100万人以上の規模の渡来人

を想定する必要があるとしたのである。

人類学者は出土人骨の分析から総じてこの

見方に賛成である。右図のように関東地方

でも渡来人の割合が6割を示し、北部九州

では8~9割を占めることも事実である。


 一方、考古学者はこれまでの発掘結果か

らみて、北部九州においても西日本全体で

も在来の住民を圧倒するような規模の渡来

を想起させる調査は全く報告されておら
 http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_08/haniyorutoraikeinohannbetu.jpg ず、埴原を初めとする人類学者の見解を否定する。 
 この学界間のギャップを解消する説を提示したのは中橋孝博である。中橋は本来狩猟・採集民である縄文系弥生人と渡来系弥生人の人口増加率を分けて考えた。既に縄文文化の崩壊で見てきたように縄文系弥生人の人口増加率は縄文後・晩期、マイナスで推移してきた。
 中橋は縄文系弥生人が一部稲作農耕を取り入れても人口増加

率は大きく見積もって年間0.1%を超えることはないと推定し

た。

これは必ずしも無理な仮定とは言い切れない。右のグラフを参

照いただきたい。瑞穂の国日本は弥生時代から始まった。しか

し、現代のように水田が農地を埋め尽くすと言った景色はおそ

らく室町時代からである。すくなくとも弥生時代の貯蔵庫の中

は縄文以来のドングリが米以上に主要な位置を占めている遺跡

が多く、標準的農耕社会の人口増加率を適用するのは無理があ

る。 

 一方、渡来系弥生人について中橋は上掲の隈・西小田遺跡の

甕棺墓数の推移や永岡、金隈の同様なデータから人口増加率を http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_08/syokuryouno_isekisuu.jpg 算出し、ほぼ1%という高率を設定して良いとしている。
 筆者はこの中橋の集団ごとに人口増加率が違うはずだと言う考え方を踏襲しつつ、新年代観を取り入れるとどうなるか、算出を試みた。それが次の表である。
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_08/yayoijidainojinnkouzouka.jpg
試算は次のように行った。
1.弥生初期と終期の地域別人口は小山修三の人口推定(参照)によった。小山の年代観は
 新年代観に近く、縄文晩期を弥生早期と読み替えるだけで整合性を持ち得た。
2.それぞれの地域の縄文系と渡来系集団の割合はいろいろな研究成果を参考に表の数値のよ
 うに筆者が定めた。
3.その結果、縄文系の集団の年平均人口増加率が自動的に算出された。ピンク色で示した数
 値である。東日本の縄文系の人口増加率は低く、西日本のそれは埴原の言う“通常の農耕
 社会の人口増加率”の範囲に入っている。筆者にはいずれも首肯出来る数値である。
 ただし西日本の縄文系は中橋のいう0.1%を上回る数値となっている。
4.渡来系集団については人口増加率を埴原の言う“通常の農耕社会の人口増加率”の0.2と
 0.3においてシミュレーションを行った。弥生時代の期間が埴原の100万人渡来説を唱え
 た時代と異なり、新年代観によってほぼ2倍の期間になったこともあっていずれのケース
 も納得できる数値となった。むしろ1100年間で列島全体で50000人から120000人、年平均
 50人から100人という渡来人の推定数値は意外に少ないと筆者には感じられる。

   古墳時代以後の渡来人の規模予測

 先にも述べたように埴原の100万人渡来説は弥生時代から奈良時代までの間の話である。
したがって少々先走りだが古墳時代からの人口増加について、ここで検討して見通しを立てておくのも意味のないことではあるまい。
 そういうことから同じく小山修三の人口推定を使い弥生末期から奈良中葉までの550年間の 人口増加率と渡来人数のシュミレーションを行った。それが次の表である。
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_08/kofunnkaranara_jinnkou1.jpg
*この表には誤字や計算の誤りがありましたので訂正して差し替えました(2008.02.26)。この検討は予想を上回る大変な数値を含んでいる。
1.まず埴原の言う“通常の農耕社会の人口増加率”の範囲内(0.1%~0.3%)では渡来人数は
 まさに100万人から300万人と言う結果になったのである。
2.古墳時代、朝鮮半島では国の消長が激しかったの
 
 で、一国が国を挙げて日本に亡命するということ

 があったかもしれないが、それでも渡来人数の想
 
 定として50万人以上は考えられないのではないか、
 
 あまり予断しない方が良いと思うがそういう風に
 
 感じる。

3.とすると人口増加率を0.35~0.4と設定しなけれ
 
 ばならない。これが許されるかどうかが問題で

 ある。

 右の表は中橋が提示した世界各地各時代の人口増

 加率の一覧表であるが、この表からすると1%程度

 と設定しても別段おかしくはなさそうである。

いずれにしろ古墳時代にこういう問題をはらんでいる  http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_08/sekaino_jinnkouzoukaritu.jpg ることを考慮しつつ検討を進めることにする。
 
 弥生末の日本人のGm遺伝子頻度

 第3部の最後に弥生末期の東西日本人のGm遺伝子頻度を推定しておこう。
西日本地区では渡来人の出身地域別割合は朝鮮南部と江南地方が渡来人総数のそれぞれ1/4づつ、朝鮮北部からが1/2と仮定した。
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_08/Gm_yayoimatu_nisinihonn.jpg

東日本地区では西日本地域の渡来人系の移住が1/2、朝鮮北部からの渡来人が1/2とし、朝鮮南部や江南からの直接の渡来はなかったと仮定した。
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_08/Gm_yayoimatu_higasinihonn.jpg

これら2地区の日本人のGm遺伝子頻度が古墳時代から奈良時代にかけての渡来により、現代日本人とほぼ同じの頻度になるか皆目見当がつかないし、自信もない。そのことをご理解いただいて以上の2表をご覧いただきたい。

阪泉之野 发表于 2009-3-11 11:39

3,000年前長江中・下流域に、先に大野が挙げた5項目の文化を包含した集団がいた。
彼らは、黄河流域から南下してきた集団との戦いに敗れ、一部は東に、一部は西に南に逃れた。
 東に逃れたうちの一派は北部九州にたどり着き、弥生前期後半に甕棺墓の風習や弥生文化の多くを広めることになった。
 一方西に逃れた一派は、雲南センターを経由して更に西に進みドラヴィダ族のタミル集団に稲作とやはり甕棺墓などの弥生文化に並行する文化をもたらした。
 この結果、日本列島と南インド地方には、あたかも南インドの文化や言語が日本列島に伝来したかのごとく、同じ文化や言語がほとんど同時期に平行して存在するという状態を現出した。

thelasthuns 发表于 2009-3-11 12:18

百越兄提供的资料真不少!
赞一个...

记得以前日本有学者粗略估算过:渡来人的累积数量最高可能上百万,时间跨度可能为500-600年,并且融合过程相对和平;
看来O3、O2、C、D并存于日本是有原因的。

渡来的最后主力是古坟时代的“植轮武士”集团,估计是O2b+O3;但整体而言,渡来的大部分最大可能是南方文化系统的“水稻种植者”,线路包括北路(韩国)和南路(江苏),可是奇怪的是O2a在日本很少看见,有可能O2b也是“水稻种植者”?

北条信秀 发表于 2009-3-11 12:20

我一直有一个问题,为什么我们国家的古籍上对植轮武士会没有任何记载?

baiyueren 发表于 2009-3-11 12:23

O2b毫无疑问是水稻种植者,而且从长江中游和印度稻作起源年代来看,他们的迁徙就不可能晚于8000年,事实上5000年内向日本的移民是有的,但是他们的人数不会多,从日本O2a的数量级就可以知道他们相对更早期移民的数量。这篇的问题也是在于把不同批次的早期迁徙全部归结为晚近的已知事件。印度的南亚语人可能是4000年前的苗瑶移民吗?

[ 本帖最后由 baiyueren 于 2009-3-11 12:26 编辑 ]

剪径者 发表于 2009-3-11 12:32

大野晋的日语泰米尔起源说,现在看来可能是通过阿伊努人联系上的。

我以前看过一本日本学者写的书估计日本绳纹时代的人口可能相当多,还分析过东日本和西日本文化的不同有受绳纹人影响的因素,以及日本人血统有“南北倒错”的特点。

[ 本帖最后由 剪径者 于 2009-3-11 12:34 编辑 ]

阪泉之野 发表于 2009-3-11 12:41

应该好好查查舟山群岛一带人们的基因。历史记载秦亡关东六国后有大量遗民漂泊海上,以“不帝秦”的敌对姿态面对新政权,被秦称为“东海外越”。这些人最后不知所终,八成去了南韩,九州,冲绳,舟山这些地方。

阪泉之野 发表于 2009-3-11 12:47

原帖由 北条信秀 于 2009-3-11 12:20 发表 http://konglong.5d6d.com/images/common/back.gif
我一直有一个问题,为什么我们国家的古籍上对植轮武士会没有任何记载?

按照一些日本人的说法,植轮(haniwa)部队是三国时代东吴的一支失踪舰队,人数多达十万。

北条信秀 发表于 2009-3-11 12:50

回复 18# 阪泉之野 的帖子

这真是胡说,如果真是这样,为什么在日本人里找不到百越的标志性基因O1,O3d,O2*?

阪泉之野 发表于 2009-3-11 13:02

1700年前华东人群的基因结构和现在应该有所不同吧。永嘉南渡,南宋建立,蒙古征服,江南苗乱,朱元璋迁移人口,太平天国。。。这些对江东的人口结构都有巨大冲击。正是因为这样,日本人喜欢发掘汉代江南人类遗骨来和日本弥生人比较,而不是和现代江南人。
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